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炎上するお笑い芸人は小学生レベル

雑記

最近、お笑い芸人の発言が炎上する事が多くなっています。例えば直近でも、

ナイナイ「安倍さんお腹痛くて逃げた」 ラジオで発言、わずか50分で謝罪 : J-CASTニュース

漫才師のナインティナインが安倍総裁を揶揄する発言をし、番組中で謝罪したようです。今は超情報化社会ですから一旦情報が出てしまうと端から端まで一瞬で伝わってしまいます。昔はラジオの発言なんてそれを聞いている人間とその人の友人数人程度の範囲で収まっていたでしょう。

ここ数年こういったお笑い芸人のネタ、もしくは弄りが洒落として捉えられなくなったのは大衆が馬鹿になったからという意見もあれば、インターネットの普及で誰でも(小学生さえ)意見を発表出来る様になったため、今まで隠れていた層が顕在化しただけだとも言われます。実際どうなのかは分かりませんが、重要なのは昔は許されていた事が許されなくなったという事実です。

よくいじめと弄りの違いはなんだという話が出ます。最近の学校でのいじめで、加害生徒はこれはいじめじゃなく弄りだと言い訳するというのです。しかし、弄りは相手(弄られる側)がそれを理解し了承している場合のみ成立するのであり、自分(弄る側)が一方的に決められる事ではありません。

いわゆる「お笑い」というものの本質は明らかに弱い者いじめです。他者は貶める事により、結果、自分の順位を上昇させ優越感や安心感を得るのです。それはコント55号ドリフターズひょうきん族から今のお笑いへ連綿と続き、今に始まった事ではありません。

昔はそういった加虐行為に対し緩かったかも知れませんが、現代のように人権意識の高くなった時代にはそういった行為は認められ難い。しかし、お笑いの本質がいじめである以上、誰かを馬鹿にしてしか笑いは生み出せないのです。

ここで必要になる技術が調和です。現代のお笑い芸人は本質的にはいじめであるお笑いと、現代人の高い人権意識を上手く調和させる必要があるのです。いじめが強すぎれば批判がくるし、人権が強すぎれば面白く無い。

これは寿司ネタの玉子に似ていると思います。よく通の人が最初に玉子を食べればその店の腕が分かると言ったりしますが、これは卵焼きは甘いもの、シャリ(酢飯)は酸っぱいものであり元々合う味ではない。それを上手く調和させているという事は、その店の職人の腕が確かだという証拠だ、そういう意味で通は最初に玉子を食べるのです。(最近の寿司屋は卵焼きを業者から買っているところも多いようですが。)

お笑いというのも全く同じで、いじめと人権という相反するもの同士を上手く合わせて作り出さねばならず、それがまさしくお笑い芸人の技術になるのでしょう。

そう考えると現代のお笑い芸人は低レベルと言わざるを得ません。炎上が起こるという事はいじめの方が強く出ている、つまり調和が取れていない事を意味しており、それが頻発するという事はいじめと人権を上手く調和させる事が出来ないお笑い芸人が増加した事を示しているわけですから。

昔と比べて厳しくなり過ぎていると言うかも知れませんが、現実にそういう世相になったのですからそれに合わせるしかない。昔はテレビ向けラジオ向けなどユーザー層が異なり、それぞれの層向けにアレンジ出来たでしょうが、超情報化社会の現代ではターゲットを絞るという事も不可能です。

ネット時代ではテレビだろうがラジオだろうがどこかで情報を発信すると、あっという間にネットで流れて全ての層に情報が行き渡ってしまい、結果、想定していなかった層から批判が来る。これは本人の所為ではなく余計な事をする第三者の所為ですが、社会がそういう構造になっているのですからどうしようもない、与えられた環境や状況で結果を出すしかないのです。

名コックがいつも同じ味を出せるのは、いつも違う作り方をしているからだと読んだ事があります。手に入る食材は名前は同じでも鮮度、甘味、酸味など微妙に違う。甘味が足りなければ砂糖を、酸味が足りなければ酢をいつもより多めに入れなければならない。

味が違うのはいつもと食材が違うからと文句を言ってみたところで意味が無い。昔がどうであれ、今、手元にある材料を見極めて、それに合ったやり方で作り出さなければならないのです。毎回同じ味を出すためには毎回違うレシピにしなければならない、今の視聴者がどうこうと文句を言ってもしょうがないのです。

今は学校でのいじめが社会問題になっています。お笑いではなくいじめでも周囲を笑わせる事は出来るかも知れませんが、それは今、小学生の間で行われ社会問題になっている行為そのものです。だから今のお笑い芸人は小学生レベルなのです。