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ゲーム批判に反論する

雑記

新しい文化が批判の的になるのはいつの時代も変わらぬ光景なのでしょう。テレビゲームが登場して30年が経過しましたが、誕生から今の今までゲームは批判に晒されています。批判するのは自由ですが、その中には奇妙な論理であるとか、明らかに的外れだというものも少なくありません。そういったおかしなゲーム批判に対し、ゲーム好きの一人として反論してみようと思います。



馬鹿になる

これには勉強する時間を奪うという意味と、単にゲームをすると直接的な影響から頭が悪くなる、の二つの意見があるでしょう。

まず勉強時間を奪うというのは基本的に勉強時間以外でゲーム(も含めた娯楽)はやるものであり、トイレに行かなければもっと勉強していたというのと同じです。本来するべき勉強をほったらかしてゲームに没頭してしまうと言う人もいるかも知れませんが、それはゲームだけに限った話ではなく、本人の克己心や躾の問題です。

直接的にゲームの影響で馬鹿になるという人もいるかも知れませんが、私はこの手の批判で説得力のある根拠を聞いた事がありません。昔のカメラで撮られると魂を抜かれるというエピソードが示すように、自分の時代に無かった物に対し、学びの幼年期を過ぎた人間が意味のない恐怖感を感じるのは世の常です。

そういった自分の好みの物が善で好ましくない物は悪と考える人間が、あのトンデモとして後に有名になった「ゲーム脳」デマを広め、差別を作り出すのではないでしょうか。

時間の無駄、役に立たない

何に価値を見いだし何に見いださないかは個人が決める事です。無駄かどうかというのは他人からは判断出来ないものです。批判している人間が大事にしている事でも、それに対し価値を見出さない者なら時間の無駄に見えているでしょう。

そもそもゲームをやっても何も得るものが無いなら、良い影響と同時にゲームの悪影響も無いはずです。

運動音痴になる

これはゲームに限った話ではなく、体全体を動かさない全てのものに言える事です。例えば文学がそうですが、運動が出来なくなるから本なんて読むなという意見は聞いた事がありません。なぜゲームだけ悪く、特別扱いするのでしょうか。

ちなみにゲームには体を動かす体感ゲームというジャンルがあります。

想像力が無くなる

想像力が無くなるというのもよく聞きます。ゲームなんかより小説の方が文字しかない分、想像力を掻き立てられ想像力の発達になるというものです。ではなぜ彼らは実写である映画やドラマを否定しないのでしょうか。具象的でなく抽象的な方が良いというなら、真っ先にこれらのものを批判し、あまり経験をしていない人間ほど、引きこもりほど想像力豊かだとなぜ言わないのでしょうか。

彼らの説に従えば、生まれたばかりの赤子を何も無い白い部屋で育てると、とてつもない芸術家になるのでしょうがそんな事はありえません。想像力は五感によって吸収した様々な知識の再編集、再構築を行う能力の事だからです。

仮に彼らの言う通り小説等の方が想像力を掻き立てるというなら、ゲームより本の方が影響力が強いのではないでしょうか。ならば同じ殺人シーンでもゲームより本の方が悪影響があると批判して然るべきでしょう。

生産性を低下させる

ゲームの所為で世の中の生産性が下がるから悪だ、という意見も良く目にします。ゲームがあるからゲームばかりやって働かない若者が増えたのだ、というわけです。

そもそも生産性とは何の事でしょうか、GDP国内総生産)の事でしょうか。ゲームをやる時間を労働に回せば日本のGDPはもっと上がっており、ゲームはそれを妨害していると。

まず指摘したいのはゲームが無いからといって無職の人が働くとは限らない点です。単に就労意欲の無い人間が暇つぶしにテレビゲームをやっているとして、それが無くなったとしても結局働かないでしょう。なぜなら最初から働く気自体無いからです。彼らはゲームをやりたいから働かないのではなく、働きたくないだけです。働かずやる事もないのでゲームをやるし、ゲームが無かったら別の事をやるでしょうし、まるで何も無ければ寝てるか単に何もしないだけです。

人間は余暇を使って娯楽、趣味を楽しみます。その楽しんでいる時間はそもそも仕事や必要な作業に充てない時間を使っているのです。そういった趣味の時間にゲームをやる人間は色々な娯楽の中でゲームを気に入っただけの人間であり、絵や刺繍などが気に入った人はそれをやる、ただそれだけの事です。

「それでも生産性が下がっていないとは言えない」というなら、必ずしも生産性を上げる必要があるのでしょうか?

我々は幸福になろうと生きています。幸福の尺度がGDPであり、そのGDPを低下させる要因が不幸を生むとしたら間違い無くゲームは悪でしょう、しかしそれはゲームだけに限らない。旅行へ行ったりスポーツをしたり、つまりレジャーは全て悪になるのです。GDPの向上に貢献しないもの、それを阻害するものは全て悪なのです。

余暇を増やし趣味や娯楽を楽しむのは幸福ではないのでしょうか? もうこれ以上いらないと思った所まで豊かになっても、GDP向上のため四六時中働かなければならないのでしょうか? 使い切れもしないお金や食べ切れもしない食物を買うために、全ての趣味や楽しみも捨て働き続ける事が幸福だという人がいるのでしょうか? 自分にとって必要な分だけ働き、残りの時間は趣味や娯楽を楽しむ。その結果GDPが低下するなら、そもそもGDPが幸福度を計る尺度として意味を成さないという事です。

私であれば出来るだけ多くのお金が欲しいし豊かにもなりたい、しかしそれはただただ儲ければ良いというだけではない。それを使い楽しみたいとも思うし、その楽しみが実現出来るだけのお金があればそれ以上はいりません。

自分が欲しい分だけ稼いで、後はそれを使って旅行やスポーツといったレジャーを楽しむ、それで構わないでしょう。幸福になるという事は、富を沢山獲得する事とイコールではないからです。

最近のゲームは残虐だ

残虐シーンがあるのはゲームに限った事ではなく、どうしてゲームだけ影響があるのか分かりません。

ゲームはCEROにより年齢制限が設けられており、残虐シーンも規制が入っています。完全なゾーニングは出来ていないとは思いますが、これもまた他の業界と同じです。残虐ゲームが問題だと言っている人は、残虐性を取っ掛かりにしてゲームそのものを否定する人が多い。批判するなら残虐シーンがあるゲームのみを批判すれば良く、ゲーム全体に批判を拡大させる論法は止めるべきです。

そもそも何を残虐とするかというのは難しい話です。例えば日本の活け作りは世界からよく批判されたりします。考えてみれば生物の肉を生きたまま削ぎ落とし、口をパクパクさせ苦しむ様を見て喜んでいるのですから、今までそんな物を見た事がない外国人がショックを受けるのは当然でしょう。

自分は今までゲームを遊んだ事はない、初めて見たら男性が女性を殴っていたり、甲羅を他の車にぶつけ妨害していたり酷いものだ、そう感じたとしても、それぞれの国、地域、業界、コミュニティには今までの歴史があり、それも理解せず外から来て初めて見た第一印象で善悪を決めるのは、独善が過ぎるように感じます。

ゲームと現実の区別がつかなくなる

例えば最近のゲームはリアルで現実とゲームの区別がつかなくなり、若者は現実で犯罪を犯すのだ、と言いますが、その因果関係を示す根拠を彼らは提示しません。ただリアルになったからと連呼します。しかしそんな事を言えば人を撃ち殺すシーンのある映画などはそれこそ実写(リアルそのもの)なのですからあっちの方が悪影響が出るはずなのですが、彼らは全く映画になど触れません。

他に出す根拠としては何か大きな事件(殺人等)を起こした犯人の家にゲームがあったとか、ゲームをやっていたゲーム好きだったというものです。家にゲームがあったと言いますが、多くの人がゲームをやる時代ですから別段珍しくありませんし、ゲームしかなかったのでしょうか? その家にはゲームだけで映画のDVDや小説、テレビは無かったのでしょうか? もしあったのならなぜそちらも原因だとされないのでしょうか。

今はゲームが普及し多くの人間がゲームをやった経験があります。これだけ多くなればゲーム未経験者を捜す方が難しく、若い世代なら良い事をやった人も悪い事をやった人もゲーム経験者なのです。殺人事件が起きて犯人を捕まえてみたらゲームをやっていた=ゲームの影響というのは、馬鹿馬鹿しいほど短絡的です。因果関係が分かったわけでもなく、色々な物の中から自分のイデオロギーに合わせて生け贄を選んだに過ぎないでしょう。

相関関係など数秘術と同じでいくらでもこじつける事が出来ます。日本が不況になったのは隣のおばさんがフラダンスを始めた所為だ、なぜならおばさんがフラダンス教室に通い始めた頃から日本の不況も始まったからだ、そんな事も言えるわけです。相関関係など因果関係を突き止めるための取っ掛かりを見付けるのに役立つ程度でしょう。

一病息災という四字熟語があります、持病が一つ位ある方が病気の無い人よりも健康に注意し、むしろ長生き出来るという意味です。因果関係も分からないまますぐゲームの所為だと言う人は、この諺を病気になると長生き出来ると捉える人でしょう。世の中には相関関係と因果関係の区別がつかない人間が多過ぎるのです。ちなみに日本の犯罪者の99%は米を食べており、日本の犯罪者の多くは箸を使っています。