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最近の文学の異常な地位向上の理由

雑記

昔から本を読め本を読めと言われますが、最近はその本を読めの本が=文学になっていると感じます。かつては学術書や参考書などが読むべき本と言われていた気がしますが、なぜこの様な風潮になったのか理由を考えてみました。それが以下の2点です。

  • 昔と比べて学歴が中途半端に向上した
  • 文学は識字が出来れば誰でも読める

今では多くの人が大学まで行きますし最低限高校位は女子でも卒業する時代になりました。この様に学歴が向上するとそれに対して自尊心や知識欲、知性に対する向上心も上がったのではないでしょうか。だからといって非常に高度な内容の専門書を読むほどは優秀ではなく中途半端に優秀になったのだと思います。結果もっと頭が良くなりたい、でも本格的に難しい本はやっぱり読めない、では自分には何が読めるだろう?そうだそれは文学だ、という結論になり文学自体の価値を押し上げる事にしたのだと思います。

つまり文学が高い地位を占める様になったのは、中途半端に学歴のある人々が高い知性を身につけようと望んだけれど、それらの知識は思った以上に難解で自分には理解不能である事を悟り、発想の転換を図りその高見を目指す事を止め、すでに自分がいるその場所を高見という事にしてしまおう、自分でも読む事が出来る文学という物を自分では読めなかった学術書や専門書と同格に扱う事によって、自動的に自分も学術書等を読み込める高い知性を持つ人間と同格にしてしまえばいいのだ、という考えから生まれた社会的流行によるものなのです。

そして都合の良い事に文学は基本的に識字が出来れば誰でも読めます。作品に込められたメッセージ性などを理解するにはそれなりの能力が必要でしょうが、私にはこう感じられたとか、ここはこういう解釈も出来るだとか何とでも言い訳する事が出来ます。学術書や参考書の場合はそうはいきません、例えば数学の本であれば間違いと正解は明瞭で誤魔化しは効きません。文学において理解出来た、という事は明確でなく個々人が勝手に自己解釈可能であり、そしてほとんどの人達は読み終わったが何も理解出来なかったという判断よりも、自分はしっかり著者のメッセージを受け取れたのだと判断する事でしょう。

漫画や映画などではなく文学が選ばれたのは、歴史が長く箔が付いていたためです。学術書や参考書よりも難しくなくそれでいて箔が付いているので読後は自己評価を上げる事が出来る、非常にお手軽だったのでしょう。

目の前に大きな山があり、それをたゆまぬ努力で征服する人がいて、自分の実力不足を素直に認め諦める人がいて、そしてその山の頂と今自分がいる場所を同じ場所だと言い張り、何の努力もせず自分も成功者の栄光を手にしようとする人達がいる。

文学は所詮単なる娯楽に過ぎず、読めば頭が良くなる物でもありません。娯楽は純粋に娯楽として楽しむべきです。ましてや怠惰で何の努力を支払う事もせず、一生懸命努力し成功者となった人々の表彰台にいつの間にか勝手に上がり、同じ成功者面をするのは如何なものかと思いますね。